佐久間曻二

元松下電器産業副社長/WOWOW名誉相談役/ぴあ終身相談役

プロフィール

1931年、新潟県生まれ。1954年、大阪市立大学経済学部を卒業。1956年、同大学院経営学研究科修了後、松下電器産業株式会社(現・パナソニックホールディングス株式会社)に入社。1983年、同社取締役・経営企画室長。1986年、同社専務取締役。1987年、同社取締役副社長。1993年より株式会社WOWOW(当時は日本衛星放送)代表取締役社長に就任。以来、徹底したコスト管理と営業強化によって、倒産すら危ぶまれていた同社を再建に導く。2001年より、同社代表取締役会長を務め、2006年6月より取締役相談役。2007年6月、取締役退任(現在、名誉相談役)。2008年6月、ぴあ株式会社社外取締役就任。2022年6月、ぴあ株式会社終身相談役就任、現在に到る。

講義一覧


原因はトップの油断と隠蔽…売上至上主義から適正経営へ

松下幸之助の危機克服~熱海会談の真実(4)共存共栄と「3+7の物語」

熱海会談は、松下幸之助の経営者人生において画竜点睛というべき一幕だった。佐久間氏はその後も松下電器(現パナソニック)の発展に寄与し、「3+7の物語」を用いてWOWOWの再建に貢献する。最大の危機を乗り切った熱海会談の成功から学べることは多いのだが、最終話の今回は松下幸之助が終身貫いた「共存共栄」の思想と「3+7の物語」について語る。(2023年12月1日開催日本ビジネス協会JBCインタラクティブセミナー講演「私の中の松下幸之助」より、全4話中第4話)


押し込み販売と手形の山…破局の危機を乗り越える熱海会談

松下幸之助の危機克服~熱海会談の真実(3)松下幸之助の涙の約束

「やっぱり松下が悪かった」――松下幸之助による涙の謝罪で終わった熱海会談。この会談は、1961年に松下電器の社長から退き、会長としてPHPに専心していた松下幸之助が勇躍、第一線に戻り、代理店販売会社である全国の卸屋との絆を結び直した経営史上の一大事だった。ではなぜ3日間にわたってこの会談が行われたのか。その要因となったのは何なのか。当時の手記とともにその顛末を語る。(2023年12月1日開催日本ビジネス協会JBCインタラクティブセミナー講演「私の中の松下幸之助」より、全4話中第3話)


「三種の神器」ブームの後に来た最大の危機…その予兆とは

松下幸之助の危機克服~熱海会談の真実(2)最大の危機と予兆

佐久間氏は自身の苦境を乗り越えるにあたり、松下幸之助の「最大の危機」を参考にしたという。それは1964年7月、松下関係者と販売会社・代理店のトップ200名を集めて行われた「熱海会談」である。(2023年12月1日開催日本ビジネス協会JBCインタラクティブセミナー講演「私の中の松下幸之助」より、全4話中第2話)


松下幸之助は聞き上手ではなく言わせ上手…素直な心で即断

松下幸之助の危機克服~熱海会談の真実(1)最初の出会いでの衝撃

「私は松下幸之助に惚れました。この人についていこうと思いました」――こう語るのは、28歳から25年間、幸之助の薫陶を受けた佐久間氏。かつて松下電器産業副社長を務めた氏が幸之助から学んだこととは何だろう。最初の出会いである「三役会議」から振り返る。(2023年12月1日開催日本ビジネス協会JBCインタラクティブセミナー講演「私の中の松下幸之助」より、全4話中第1話)